2006年09月の記事一覧

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09/25

ウォータージャンプを何で作るのよ!?と問われると、
ウィンタービジネスの底辺拡大、ウィンター市場の活性化、正しいマナーと安全性認識の啓蒙活動を行います、、、、とよい子の答え。まあ、硬っ苦しい話だけど、その通り。

読者にはかなりなヘビーユーザーがいるでしょう。
飛びであり滑りであり、きっとみんなは遊び方を知っています。
そして飛びやゲレンデのマナーやルールもそれなりに知っています。
技術を吸収しようとする環境も自ら整備できることでしょう。
もちろん様々な情報も入手できると思う。
そして共有する仲間達も少なからずいるはずだ。

ところがねぇ、一般の人たちだよ、遊び方知らなきゃマナーもルールも知らない。
環境整備など全く不可能だし、情報も疎い。そして仲間にも恵まれていないのですよねぇ。
その人達がだよ、ふつうはウォータージャンプするなんて考えないでしょ。

だれかが、飛ぶことを楽しめるチャンスを提供してあげなきゃ。
安全に飛ぶマナーやルール、そして技術を正しく伝えてあげる。
女性ひとりでも、キッズ達でも、ファミリーでも気軽に行ける場所を提供する。
ようは、飛ぶことの敷居を低くして、ウォータージャンプを気軽に利用してもらうという環境がなきゃ、ウィンター市場は、フリースタイル市場は衰退するよ。

フリースタイル市場のパイを押し上げる、拡大することを誰かがやらなくてはならないことになる。
パイを広げるためにはウォータージャンプはスキー場では、最早”らち”があかない。
それが高額な家賃と設備投資であっても、そのリスクを背負ってもやらなくてならない。

ずーと、フリースタイルの普及ということ一念であっという間の30年。
そしてウォータージャンプに関わる年数も同じく。
いまでもその普及や開拓の情熱はなんとか続いています。
どこまで体と気力が続くかわかりませんが、これからも走りますよ!
スキー、スノーボードのフリースタイルジャンルがもっともっと広がるように!

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09/20

95年頃には、ウォタージャンプがなんたるかも含めて認知度や浸透度はかなり低かったですね。
世界中どこを探しても運営や経営のマニュアルなんてものは全くない。作ることだけであれば、すでに自身で借金をして何回も作っている。
お手本としようとする施設がないわけだから、すべてが手探り状態。
事業事例があればマネをすればいいわけですからねぇ、最初にトライする人には産みの苦しみがあるわけですよ。が新たなこと、未体験や既成数値が無いことを、あらたに「興す」ことはなによりやりがいがあるわけです。

 私のスタンスといいますか、「物まね」が苦手です。それと標準化という言葉も嫌いな方です。
これは、物まねや標準化は、運営としてはやりやすいし一般社会では当たり前なことですが、生産性や革新性が徐々に薄れてくる。流れで仕事をすることになります。流れることでいい点がありますが、新しいことを考えることや挑戦することに臆病になってくる。仕事を新鮮に常に向き合うこと、この発想がなくしてはウォータージャンプは作れない。というより事業性がなくなるという脆弱な市場でありビジネスなんですね。

 私の本業はスキー場の設計や運営コンサルタントですから、明確な答えのないことに対して答えるということでは、20年間も関わっているうち随分と鍛えられてきます。
スキー場では自然状況や地域特性、それぞれの地の人間により、いろいろな答えが生まれてきます。私にとって、本業の延長でのスタンスだっただけに事業計画作りは楽しい時間でした。これは冬期に運営していたモーグルコースで数値算出はすでに施行済みだったことが大きいですね。

 当時追い風は、フリーライドの動きでした。
余談ですがこのフリーライドという表現は日本独自なのですよね。当時ブラボースキーの中島編集長と新たな遊びのジャンルの表現に最も適切な言葉はなんだろうね・という会話をしていました。これはウォータージャンプのシリーズ戦を開催したり冬期にエアのイベントを頻繁に開催していた私が業界のリーダーということらしく、しかしスノーボードではなくスキーでこのジャンルの表現はどうしよう、そのなかでフリースキーやフリースタイルなどなど悩んだ結果、彼がフリーライドの方がインパクあるよ、じゃそう表現してこう・とこんな軽い感じで、誌面にイベントにスキー場の表示にてと一気に標準化されました。。。。スノーボードでのフリーライドとは違うジャンルで勝手にひろまったのです。

 さて、このフリーライドはモーグルがアスリートされる中、束縛を拒絶する人たちに一気に受け入れられ広まりましたね。サロモン1080やスノーブレードが一大ブームなったのは90年代後半です(当時私はこれらの販売にかかわるお手伝いもしていました)。
 この当時は、モーグルから分家した人たちが遊ぶもの・というイメージが強かったかな。
それを払拭してきたのは、スキーボードの人たちですね。インラインスケートテクニックの下地からわき出る技はスキーの概念を崩していましたよ。かなり鮮烈なイメージが私にはあります。
 まだモーグルイメージが残っているところもありますが、跳びだけを楽しもうとする人が圧倒的に増えてきましたね。だから、今年は飛び系専門誌が3誌も出現するわけだ。

 しかし、2000年を超えたあたりからか、前記の標準化がたった数年でフリーライドにも現れてきて、そしてウォータージャンプにも現れました。盛り上げるために大会をすることが果たしてベストなのだろうか。自分がその仕掛けにかかわらなくてもいいじゃないか、誰かがやればいい。
この時点で私はきっぱりと雪上イベントから完璧に撤退。ウォータージャンプシリーズ戦からも私は離れさせていただきました。
私が止めたことで、各方面には色々影響が起きたようです。飛び系大会だけでも10近く行っていただけに、それなり影響はあたのでしょう。
しかし、今ではよかったと思います。イベントを5シーズン離れてみて初めて、みんなが望んでいることが段々と見えてきました。
 
 イベントは止めたけど、世の滑り手の声が聞こえてきました。
イベントを望まない人たちの方が世の中には多いのだということも受け止めめることができたのです。そして三重県桑名市でのウォータージャンプK-air開設にすすみます。
 

09/17

1995年、私が白馬さのさかの顧問をしているとき、ぼちぼちウォーターの虫がわいてきて???親会社にウォータージャンプの建設提案。つまりは施設建設を通じてスキー場告知し、スノーマシンの貯水池として活用しませんかという内容。自身のリスクではなく人の褌のアレですわ。
本社役員会を通るというバックボーンは全く無し。すでにリステルにあったにせよ、エアリアルのアスリート育成を企業ぐるみで支援するという社会貢献施設に近い。海のものとも山のものともわからない一般的では無い施設。社会性以前に合議制民主主義の一民間企業となると真っ先に経済性を求められる。事業計画も日本にも世界にも事業的実績が無いだけに、裏付けがとれない。白川が歩んできたエアリアル、フリースタイル大好きでは済まないスポーツ育成とかアスリート育成などといった甘い感動論は一切通用しないクールな判断をされてしまう。
が、担当者から、リスクを持つならばという条件付きで話は急転。結局は当然ながらリスクからは逃れられないのよね。当たり前ですが。
前出の永井祐二君が運営委託を行い(彼は彼で白馬村内でウォータ適地を探していた)、私が営業的な保証人(計画以下である場合白川が返済をする)となることのすべての書類にサインして計画がスタートした。>これで失敗したら自分の家が無くなる・・・と永井君共々思いましたね。

 白馬さのさかウォータージャンプのコンセプトは、エアリアル選手を育成という永井君の本音と、ローカルモーグルユーザーの取り込みを行う白川が行う経済的背景。ここに日本で初めて一般顧客=マスをターゲットとしたウォータージャンプが誕生したのです。そうです1995年のことなのです。
 その成果はオープン後数年で現れました。冬期白馬さのさかはモーグルの聖地として一般的に浸透していました。その利用者たちに告知すると、あれよあれよとモーグルにはウォータージャンプで練習したほうがいいのだよ!ということが広まり、なんとか保証人のお役ご免と相成りましたわ。ホッ!
 これには、さのさかのモーグルの成功という側面支援があったものの、ウォーターを一般的な施設として営業展開するという、当時では誰も思わなかったアイデアを作り上げたことが要因と考えています。
これを契機に札幌のテイネやリステルもモーグル仕様を展開。全国的にウォーターでモーグルエアの練習が広まり、そしてフリーライドに発展していきます。
日本のフリーライド(フリースキー)の幕開けは、テイネ・リステル・白馬さのさかウォータージャンプが起源とも言えますね。      続く

09/15

 1984年に長野県の木崎湖にエアリアル競技のための専門施設を作成。多分にこの当時最もエアリアルらしい日本初の施設でした。
 この時経済的な支援者が無く、県内のとある方に保証人をお願いし、地元金融機関から建設資金を借り受け、なんとか建設(保証人の信用だけで借り受けたとも言えます・苦笑)。
>大変でしたがちゃんと返済しましたワ。白川直樹29歳の時。

台は、いまでいうアップ系の台と、2回転用の台。
エアリアル練習の虎の穴として、全国各地からエアリアルアスリートを目指す若者たちがやってきました。その中で特に、北海道から工藤哲史くん、水野千鶴子さん(現姓:工藤)、松浦崇人くん彼らはサラリーマンを投げ捨て、エアリアルに青春をかけてはるばるやってきました。
この時に私が全日本の強化コーチも行っていましたが、彼らのプライベートコーチであり今度は支援者として、先活を共にした長期な強化合宿だったですね。
 その後、工藤君はカルガリー五輪で11位(現在北海道スキー連盟の重鎮でテイネウォータージャンプの経営者)、松浦君はワールドカップ6位(ニセコでペンションオーナー)、千鶴子さんはワールドカップ2位(工藤哲史夫人)を数回という輝かしい成績を収めたのです。この時の熱い自分のマインドが、いまでも同じく続いているから、まだまだ(ウォータージャンプを)作っているのかな。

 後半には、アルベールビル五輪14位で現在はペンションオーナーの永井祐二君(白馬さのさかウォータージャンプの運営受託者)、リレハメル五輪出場の待井寛君(現在リステルウォータージャンプ担当しています)もやってきました。運営期間は短かかったものの、彼らのモチベーションは恐ろしく高かったと記憶しています。それは、彼らは日本の順位ではなく、世界で上位に入らなければ、エアリアルが認められない・フリースタイルが日の目を見ない・マジな気迫で・突き進んでいましたね。それを実行した彼らは本当にすごい。

 ウォータージャンプを「湖」で作ることの難しさを身をもって体験したのもこの時です。
湖は大きな河川として河川法をはじめ、あれやこれや20程の法の網がかかり、それをクリアするのが至難の業。開設には毎日毎日役所通いをし、さらにスキー連盟の支援もいただき建設にまで至りました。しかし短期で閉鎖となり、その後は借金だけが残りましたが、私にとって人生の転機となった数年間です。

 選手たち彼らは、それぞれで今でもエアリアルを愛し、フリースタイルを愛して、様々な活動を行っています。それはパワフルで、日本のフリースタイル界、ウォータージャンプ活動のオピニオンリーダーとなっています。

 私は私で、フリースタイル馬鹿だな・と実感。この時は自分が飛ぶためのものではなく、自分の教え子であり後輩たちのためにとった行動(建設)です。この時私が強化コーチという責もあったのですが、技術指導だけでは強化に至らないということを実感していました。教え方が上手なコーチだから(通常は当たり前ですが)、選手時代に実績があるからでは、選手は育たない。信頼されないものです。一番感じたのは、身をもってリスクを背負うことは気持ちに伝わるものですね。
 日本のエアリアルの創世記ですでに2回転2回ひねりや3回転1~2回ひねりを行うことは、常にコーチが選手の命を預かっていることにもなります。コーチの一声への信頼がエアリアルほど実感できるスポーツもないでしょう。今でも彼らとはいいつきあい方をしています。   続く

09/12

ウォータージャンプを様々な場所で作ったきっかけは、昭和53年頃河口湖で体験したウォータージャンプが最初でした。このウォータージャンプは、私の大先輩で北海道滝川出身の川辺義倫さんというプロが(川辺さんの祖母と私の祖母が幼なじみだったことはお互い知りませんでしたが)、当時エバニューを介して彼が輸入したことが最初です。アングル製の組み立て式のランページでした。

この河口湖ウォータージャンプをきっかけに、自分が飛ぶために練習したいがために、そして教え子の練習のために(教え子に煽られた?)、それから私がウォータージャンプまでたどり着くまでに、いろいろ遠回りをしましたね。

 まずは、今はすでになくなってしまいましたが、札幌雪祭りのエアリアルショー。これをはじめとしたエアマットのスキーショー。これまた川辺義倫さんが自家製でエアマットを作り、プロチームをつくり各地でショーをするというもの。私もメンバーとして3年間参加しました。
チームは川辺さんを筆頭に4名で構成されて、雪祭りの場合、1日3~5回30分のショーを行い5日間連続。たった30分といいますが、作り込み・テストランと体は動いているので体はぼろぼろです。このショーでアホみたいなデカイ360をやりビタ着。この時、スタッフがランディングのエアを抜き忘れていたため、がちがちのエアマットではじき飛ばされたときに両足足首の靱帯をすべて損傷。治療費がギャラを抜いてしまいました。あれは痛かった(体も金も)・・・・確か昭和55年頃でしたね。こりゃ古い。
エアマットは、これは素人には無理だということを体で実感。というより体感。
ただし、池袋西武デパートの屋上でエアマットでショーに参加したときは怖かった・・・
スタート台の真後ろ、という真下が線路ですよ(汗)

続きまして、テイネハイランドでスポンジピットを作成。
これは、私が札幌でプロショップを経営したときにナクリスといフリースタイルスキーのチームを作り、その練習場所としてテイネハイランドにお世話になり、スポインジピットのアイデアがわき上がり作らせてもらいました(設立昭和56年だったかな)。
実はこのナクリス、今でも公認チームとして全日本の一戦で活躍している選手がいるのですよね。
フリースタイルスキーを目的として新設された日本最初のSAJ公認チームなのですよ(プチ情報として覚えていてください)。チーム名の意味や、このあたりの昔話は後日として、、、、

このときには、ウォータージャンプを作りたいと一番に考えたのですが、着地地点の水面に人工プールを作るという発想がなくて、池や湖を貸してもらいたくて色々動きました。
しかし、許認可という点でハードルが高く、そのクリアする技術も金もなかったことで、スポンジを選択したのです。いい変えると人頼みだったのですよね。いわゆる他人のふんどしで思いっきり褌を取るというアレですわ。
 ただしですよ、この施設で、北海道の工藤哲史選手、松浦崇人選手など多くのエアリアル選手や全日本選手権で上位入賞したモーグル選手が発掘されました。フリースタイル自体が超マイナーであったため決してマスコミネタにはなりませんでしたが、昭和55~57年頃のフリースタイル創世記の大きな出来事だったと思います。
ちなみに、私事では昭和49年頃から札幌市内の藻岩山でフリースタイルスキーを始めてから、すでにりっぱなフリースタイルジャンキーとなっていました。
 が、しかし、スポンジピットで、大きな事故が起こりました。
フリースタイル仲間であり教え子であった友人が頸椎骨折という大事故。私がコーチであっただけに、この責任は重大。スポンジピットのエリアではない場所にはみ出しての事故でした。
しかし当事者である友人は半身不随の状態のベッドの上から私に向かって、フリースタイルの発展のために、指導や拡大をやめるな!と私を叱咤激励しました。
実は20年以上も前のこの言葉は今でも忘れません。この言葉があったから今の仕事や普及活動を続けていたのかもしれません。しかしこの事故でスポンジピットの危険性を痛いほど認識し、当然ことながら閉鎖。多くの方に迷惑をかけてしまいました。

 しかし、練習に飢えている選手たちには待ったなし。この時定山渓温泉のとある敷地を借りて、またとんでもないことを。
これは江別や岩見沢の牧場から藁を大量に仕入れてランディング部分に敷き詰めてエアリアル。
これはセンセーショナル。ちゃんとエアの練習になるではないですか。
3回転も可能でした。たった5人程度の練習でしたが充実していました。
がしかしいくつか欠点が、、、、
雨が降ると藁がしぼむ、、、時間がたつとまた萎む、、、ランディングすると萎む、、しぼんだ藁をフォークでほぐす、、、、、藁がくさい、、、かなりくさい、、、、そして藁がちくちく刺さる、、、、、
ということで1ヶ月くらいで断念しました。
ただし、この時、成せばなるという自身も持ったときでしたね。
この藁のピットは過去にも今もこの1回だけですね。人呼んでヘイピット

 スポンジピットを反面教師にして、昭和59年に長野県大町市の木崎湖に自身初めてのウォータージャンプ建設。                続く。

<お問い合わせ・ご意見は cava@freestyle.co.jp まで>

09/09

飛ぶことを専門としている遊びやスポーツには様々なものがありますよね。
ウィンターではスキージャンプ、モーグル、ビッグエア、ハーフパイプ、スロープスタイル、
オールシーズンでは、体操競技、トランポリン、高飛び込み、タンブリング、スカイダイビング、モトビッグエア、BMX、バンジージャンプなどなど
これらのスポーツの新たなジャンルに、今や「ウォータージャンプ」が加わった現象が起きています。

西武園ゆうえんちウォータージャンプS-airが2006年7月7日にオープンしました。
有限会社アプレスキーが西武園ゆうえんちスノーボードパークを借り受け、ウォータージャンプ場に施設改修したものです。いわば施設の再開発。
連日たくさんの方々がスキーやスノーボードを履いてウェットスーツを着込んでプールに飛び込んでいます。
利用される方の80%はウォータージャンプが初めての方々です。
この数字には、多くの方が驚かれます。
「あんなマニアックなことをやる人がそんなにいるの?」と感心されます。
通常の概念からは、かなり特殊な印象が強いのですね。
ビジネスという観念より、スポーツ施設、修練や強化の場所というイメージでしょうか。

ただ、実際は違う。
西武園ゆうえんちウォータージャンプに来られた方、スキー場経営者の方も多く見えます。
スポーツショップのかた、ウィンターメーカーの方、はたまたウィンター専門誌の方々も、業界の方々が西武園ゆうえんちウォータージャンプの状況に驚かれます。
こんなにも、一般の方が多いなんて・・・・・・・
しかも、滑ることもままならず飛ぶ人までいる。
そして、すごい数の人がいる。いったい何人いるのだろうか。

ウォータージャンプというスポーツを、2002年に三重県桑名市にオープンしたウォータージャンプK-airが一般概念を崩しました。
こちらは、1995年に開設したショートホールのゴール場。
オープン5年ほどで経営不振となり、再生として有限会社アプレスキーが立ち上がり、スキー場外の都市型営業施設として日本初めて開設。
都市型だから、遠い山奥のウォータージャンプまでいかずに気軽に楽しめることができる。
運営を優しくすることで、エントリー層やキッズに気軽に楽しんでもらいたい。
結果は、80%の未経験者が体験し、確実に底辺拡大につながっております。

西武園ゆうえんちウォータージャンプが加わり、より広くウォータージャンプが認知され、一層の拡大になっています。

私は、声を強くしていいたい。
スポーツの枠を超えて、ウォータージャンプはレジャーとなったことを!
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